見抜かれて

目次↑             以織井戸とは_1

見抜かれて

我が名を野口以織という。本名だ。
だからといって、自らの名を井戸に冠するほど奢り高ぶってはいない。
書家も驚いた達筆で「以織井戸」を表してくれたN氏の命名だ。
「物書き」と自称するN氏の本業はさるメディア企業に勤務する企業戦略家である。
しかし以織はそちらの顔は知らない。
以織にとってN氏は茶陶磁の指南役である。そうなのか?そんなくくりで語れる人ではない。
とは言え、この項は主題は「以織井戸とは」である。
だから以織を育ててくれているもうひとりの恩人・伊勢屋美術の猪鼻徳寿氏とともに、
おふたりのことはいずれ語ろう。
しかし本人以上に、以織の焼く井戸茶碗を直感したN氏だからこその命名であったと、
今更ながら以織は驚いている。「以織井戸」を見抜いていたのだ。

十数年前、以織を襲った病から以織井戸は発芽した。病の名は「頸椎椎間板ヘルニア」。
手術要と診断されたが家庭の事情にて断念。以来、病とは友達でいる。
一時は辞書一冊も持ち上げられなかった左腕だが、家庭内リハビリの甲斐あって、
半年もすると小さなものならロクロ引き出来るようになった。
そこで以織は考えた。以前のような多作廉売の窯屋ではいられない。
なら挑戦をしてみよう。そこで選んだのが井戸茶碗だったのだ。
もともと不器用な以織には中国陶磁は向かない。あの精密さとは無縁である。
とは言え井戸に向かったことも無知で無謀な選択だった。

二十年も陶器屋をしていれば「たいがいのことはわかる」。たかをくくっていた以織がいた。
数年すると、現代作家の作る「井戸」に似たようなものができた。
だが、どうも違う。以織には違うと思えてならない。井戸の梅花皮とはこんなものではないはずだ。
伝世する名碗の画像をあかず眺めながら、ある日、以織はひらめいた。
「井戸茶碗はすべてが梅花皮で出来ている」と。 信じる眼には、信じるように映るものだ。
しかしそのことを具現化するのに8年もかかるとは、やはり以織は無知無謀だったのだ。

そうなんです。以織井戸の最大の特徴は釉ガラスすべてが梅花皮化していることです。
通常、貫入と呼ばれる陶磁器の表面にできる釉ガラスのヒビとは別物です。
貫入は窯の中で冷めていく途中、熱で膨張していた素地土の縮み率と、
表面を覆うガラス幕のそれとの差により生まれます。
素地土が縮むのを止めても、釉ガラスはまだ縮むので、致し方なく自らヒビていくのです。
そのヒビつまり貫入に時間の絵の具が作用して、陶器特有の景色を作っていきます。
もっと素直な言い方に替えると、景色とは貫入を通って浸みだした液体の汚れです。
ところが日本人はそれを愛してきました。
もっとも、ただ汚れればいいわけでなく、器を丁寧に扱った上で時間を掛けて変化させる、
そのことを愛してきたとも思えます。
古作に似た味を出すために、茶で煮たり、コーヒーにつけたりする方法もあるそうですが、
それは間違い。
陶器は磁器のように水が浸みない器ではなく、原則、大なり小なり水が浸みます。
結果、よく水が浸み出る器にはすぐ景色が出ることになりますが、
だからといって、景色を急ぐのでなく、景色を出さないように出さないようにお守りをしても
なお出てしまう景色を待つべきです。(「登場type2」の最後に関連記事)

以織井戸と上記の貫入との違いは明らかです。
貫入と見間違える以織井戸のボディの景色は釉ガラスのヒビではありません。
高台に現れた大きな梅花皮と同じ仕組みによってボディに現れた景色です。
「井戸はすべて梅花皮で出来ている」と信じ、幾度とない実験の結果 表すことが出来たものです。
では、以織井戸は古作と同じ表情なのか?

井戸茶碗に惹かれる皆さんも以織と同様、名碗を幾度となく眺めたはずです。
曰く、喜左衛門井戸、細川井戸、筒井筒、はたまた老僧か六地蔵か。
そして、梅花皮が膨らみをもって割れている拡大写真に胸躍らされたはずです。
なにかこう、素地を侵すかのように、つまむかのように小さく大きく割れていくさまは、
陶磁器をかじった人なら、あれがただの貫入などと思えるはずはありません。
しかし、それは皆、印刷物からの姿です。
本物はどうなのか。以織は名碗中の名碗に一度ならず接したことがありますが、
ルーペで確認できるはずもなく、真実に至らないままです。(h26_2_20)

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